<八高つれづれ草子> 第31回
上X国語翁
【 ヘチマが食えるか 】

暑熱山脈はどこまでで続くのやら。雨にも見放され、小さな畑も熱すぎで、トマトやキューリはもう実をつけきれず、日に焼けたりしてます。サツマイモや落花生も地中でどうなってることやら。
八高清田校舎には実の生る樹がありました。ビワ、かりん、梅、あんず、銀杏。さすがに野菜はだめですが、いつだったか、理数科の生徒がゴーヤを植えて「ゴーヤのツルがどの高さまで昇るものか研究」と1階地面から3階に向けて頑張っていたのを思い出します。
子どものころ、わが家ではゴーヤの棚にヘチマが共生してました。そして母の夏の野菜炒めには、畑のナスやピーマン、そしてゴーヤもきついのに、さらに「ヘチマ」が混ぜ込まれていたのです。貧しいながら苦労して工夫して、父と大食いの男子3人の腹を満たす、母の料理です。

これが夕食に出て、翌日にも出る。毎日じゃないかと思うほど、出る、出る。ゴーヤの苦みは想像可能かも知れませんがヘチマは無理でしょう。記憶のヘチマ食感はものすごく「ぬーぼー」として、子供心にこの世のものと思えない絶望的なものでした。
好き嫌いは、コワイ親父の機嫌を損ねるので絶対アウト。文句なしに食ってました。母を思えば感謝しかないのですが、タイヘンでした。
こんなこともあり、かつて生徒向け通信に『 ヘチマが食えるか ―食生活と抑圧物― 』ということで、大げさなことを書きました。

<・・・・自分がこどものころ、外食はほぼなく、家で「出されたものを文句なしに食べる」食生活だった。それが今や飽食の時代、外で、もしくは外で買って「好きなものを選んで食べる」ことがとても普通になった。
嫌いなものでも、とにかく出されたものを「いただきます」が日常だった子どもは、自然と、自分の思い通りに行かないことの存在にも慣れてくる。誇張して言うと、自分が望まないことでも辛抱できやすかったり、適応力があったりする。
ところが「好きなものを選んで食べる」ことが基本になれば、苦手なもの、嫌いなものに対する耐性は育ちにくい。望んでいないものが目の前に表れたときの対処が不得意になり、ただ避けたり逃げたりする。苦手な状況、自分に合わない状況が現れると非常に弱くなる。食生活の変化に、こんな大げさなことを考えてしまう。
「社会」には、思い通りに行かないこと、自分の嫌いなもの、心情的に言えば「抑圧物」がたくさん出現する。そのたびに避けたり逃げたりケンカしていては前には進めない。場合によってはそうした「抑圧物」を受け容れたり呑み込んだりもしながら、やっていかなければならない場面も多いのだ。ちょうど、少年が「ヘチマ」を呑み込んだように ・・・・・・>

好き嫌いをはっきりさせて、一度きりの人生を突き進むことは、とても大切なことだと知りつつ、ゴーヤからヘチマと思い出がつながると、ついこんな文章になりました。
ご近所の垣根に今や珍しいヘチマがぶら下がります。
母にしみじみ感謝。初盆の母にヘチマのことを書いて笑ってもらいます。

高校27期 上掛靖良

